「ユキチさーん。持ってきましたよ」
ぱたん、と扉を閉め、葵はベッドの諭吉を見ると、彼は横たわったまま、動く気配がない。寝入ったのかもしれないと思い、葵はなるべく足音を立てないように側まで寄ると、持っていた盆をサイドテーブルに置いた。
「眠ってる」
彼の顔を覗き込むと、眉間にしわを寄せたまま目は閉じられていて、葵の呟きにもまったく反応がない。これは、ちょっとやそっとじゃ起きなさそうだ。
「さっきご飯食べ終わったばかりだけど、もう寝ちゃったんだ」
熱で意識が朦朧としていたからだと思われる先ほどの彼の様子を思い返すと、不謹慎とわかっていても、頬が自然と緩んでしまう。
「はっ! いけないいけない。いくらレアなユキチさんを見られたからって」
雑念を払うようにふるふると頭を振って、気持ちを切り替える。立ったまま、しばらく彼の様子をみていると、聞こえてくる呼吸音が浅いのが気に掛かった。
「つらそう……」
それもそうだろう。夏とはいえ、全身ずぶ濡れになった挙げ句、風邪を引いてしまったのだから。
自分があんなに身を乗り出してバランスを崩さなければ、諭吉が池に落ちることもなかったのに。
彼が風邪を引く原因となった出来事を思い出して、葵は自分の軽率だった行動を恥じた。申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。
「……ゲフッ、ゴホッ……ゲホゲホッ」
葵が自己嫌悪に陥っていると、諭吉が急に咳き込み始めた。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
心配で思わず肩を掴む。
「ゴホッゲフッ……ゴホッ…………」
発作は一時的のものだったようで、咳はすぐに止まった。寝入ったままだが、しかし苦しそうに息をしている。遠慮がちに額に手を当てると、想像以上に熱い。
「お医者さまからは、食後に飲ませるようにって言われてたけど……」
葵は、先ほどサイドテーブルに置いた盆の上を見る。そこには医者に処方された薬と白湯の入った湯飲みが乗っていた。
「寝ているところを起こすは、ちょっと気が引けるな」
ためらう気持ちがあるが、咳をしたり熱が下がらない方が余計につらいだろう。
早く良くなってもらいたい。その思いから葵は意を決すると、諭吉の肩をとんとん、と叩いて呼びかける。
「ユキチさん、起きてください」
だが、諭吉は叩かれたことにすら気づかず、浅い呼吸を繰り返しつつ寝入ったままだ。
「起きてくださいっ! ユキチさん!」
今度はもう少し大きめに声を掛けて、肩を揺する。
「……ん…………」
しかし、僅かに身じろいだだけだった。
「困ったな。全然起きる気配がない」
薬を飲んでもらわないといけないのだが、これ以上強く揺すったり大声を出して起こすのは、どうしてもためらわれた。
「うーん、仕方がない。こうなったら、起きてから飲んでもらおう」
盆の横に置いてあった水が張られた容器の中に、手拭いを浸して少しきつめに絞る。諭吉の額に掛かった前髪を避けると、それをそっと乗せた。
「ぅ……ん」
顔が一瞬しかめられたが、それも徐々に和らいでいく。
「あっ……眉間のしわ、なくなってる」
冷たさが、よほど心地いいのかもしれない。
「ユキチさん、早くよくならないかな……」
そのために、医者から言われたことは、最低限守るべきだろう。
「薬、ちゃんと飲んでもらわないとダメ、だよね……」
だが、起きる気配がなく、無理に起こしたくもない。
そんな相手に飲んでもらうには……、と思案する葵の脳裏にぽんっとひとつ、ある方法が浮かんだ。
と同時に、ぼっ、と頬が一気に熱を帯びる。
「いやいやいやいや、ちょっと待って。それはいくらなんでもハードルが高すぎるよ」
自分で自分に突っ込み、冷静になろうと熱くなった頬に手を当てるも、薄く開いた諭吉の口許に目がいってしまう。呼吸は変わらず浅めで、苦しそうだ。
「~~~~~もう!」
羞恥より勝った気持ちは、白湯の入った湯飲みに手を掛けさせる。中身を口に含むと、続けて薬も同じように含み、諭吉の頬に手を添え、そして唇に、自分の唇を寄せ舌を差し込む。
「ん……っ」
――――コクン。
諭吉の喉が鳴らした微かな音を聞いて、葵は唇を離す。
「ふぅっ」
ため息にも似たものが自然と零れていた。
「ゆっくり休んで、早く治してくださいね」
(なんとか上手くいったみたいだからいいけど。このこと、ユキチさんは覚えていませんように……)
まだ収まらない頬の熱もそのままに、葵は静かに部屋を出たのだった。
数日後。諭吉はすっかり回復した。
「ユキチさん、もう具合は大丈夫ですか?」
「ああ、君の献身的な看病のおかげで、この通りね」
「献身的だなんてそんな」
そう照れつつも、よかったぁ、と胸をなで下ろす葵を、諭吉は目を細めて見やる。
「アオイ。実はひとつ、気になっていることがあるのだが」
「どうしたんですか?」
目を瞬かせて諭吉を見る。
「ワタシは、先生から処方された薬を、全て飲み終えたのだよね」
「そうですけど、それがなにか?」
諭吉の問いの見当がつかない葵は、小首を傾げた。
「だとすると、おかしいな。ワタシの覚えている回数が一回分、足りないのだよ」
それを聞いた途端、葵が、ビシッと固まった。
「どうしたんだ、アオイ?」
「はっ!」
葵は我に返ると、急に挙動が不審になる。
「そ、それはユキチさんが数え間違えたんじゃ」
「それはありえない」
「だったら、最初にもらった数を勘違いし――」
「していない。キミも一緒にいただろう」
「そっ、そうでしたね」
葵の瞳は諭吉を見ようとせず、きょろきょろと落ち着きなく動いている。
「アオイ」
「はいっ!」
諭吉が名を呼び、ずいと葵に近づくと、彼女は反射的に返事をしながら後ずさった。その拍子に、とんっ、と背中が壁に当たる。
「ただ、熱で朦朧としていたとき、判然としないものが一回分あってね。それは、キミから口うつ――」
「してませんっ! そんなこと」
間髪入れずに返す葵。その反応に諭吉が笑みを浮かべると、彼女の顔の脇の壁に手を付き、もう一方の手は葵の顎に添えられる。
「ふむ。それなら、ワタシのこの記憶が正しいものかどうか、確かめさせてもらおうかな」
「え……っと、それは――んっ」
諭吉は葵の返事を待たず、彼女の顎を上に向かせた。そして、目の前の薄く開いた柔らかそうな唇に、己の唇を重ねて舌を差し入れ、貪るようなキスをしたのだった。
2017年11月24日UP【ネットupに際して修正あり】(初出:2017年11月5日イベント頒布ペーパーにて)
お読み頂き、ありがとうございます。
この話を書くにあたり、テーマに据えたのは「口移し」「前髪を下ろしたユキチさん」「普段見られない前髪を下ろしたユキチさんを見てドキドキする葵ちゃん」でした。
口移しは、ユキチさんからだと普通過ぎて面白くないから、葵ちゃんからがいいな。看病のためにやむを得ず薬を口移しで飲ませる、というのなら不自然じゃないね。ならば、ユキチさんには風邪でも引いてもらおう。あ、水に濡れてもらえば、前髪も下ろせて風邪も引くし一石二鳥だ!じゃあ、どうしたら水に濡れる状況になるだろうか…。急に降られた雨に濡れる、水まきの水を被る、ハッチが手を滑らせた桶に水が入っていてそれを被る、などなど思いつくが、定まらず。
この悩みを友人たちに相談したところ「その辺の話、いる?」と一蹴。…私はいつも本筋からずれたところで悩みすぎて、結果、書くのが遅いです。なんとかしたいところ。
実は本にするつもりで考えてたこの話、イベントまで時間など色々足りず。しかし何も用意出来ないのは申し訳ないのと悔しい気持ちもありまして、急遽ペーパーとして作成、頒布となりました。
少しでも楽しんでいただけましたら、幸いです。