「せっかく横浜に来たのにすぐに帰ってしまうなんて、ちょっと勿体ないですね」
「そうだな。次は仕事抜きで来ようか。またあの店でキミと食事をするのもいいね」
一月も半ばを過ぎたある日。横浜駅へと向かう道すがら、諭吉の返答に葵は思い出すように空を仰いだ。
──キミのことが欲しいよ。
「あの店って……あ。そ、そうですね」
食事をした店で言われた言葉。その後、何度も反芻していたことを思い出してしまい、葵の頬は自然と熱くなる。
「どうした?」
返事に不審を感じたのか、諭吉が葵に顔を寄せる。葵は彼に悟られるのが恥ずかしくて、慌てて顔を逸らした。
「な、なんでもないですっ──あ!」
その拍子、葵の目に焼菓子店が目に飛び込んできた。
「このお店……」
「馴染みの店か?」
「いえ、そうじゃなくて。すごく美味しいらしいんですけど、前になかなか手に入らないって話を聞いてて」
甘い物好きの兄弟が話題にしていたことがあり、その光景を微笑ましく見つつ、覚えていたのだ。
店先には、『本日分売り切れ』と書かれた紙が張り出されていた。
「どうやら、今日は無理のようだね」
「手に入れられないとわかると、余計に欲しいって思っちゃうのは、何故なんでしょうね。うーん……食べてみたかったなぁ」
物欲しげに店を見る葵。その横顔を、諭吉は黙したまま見つめていた。
それから数週間後。
「こ、このクッキーは、もしかして!?」
「欲しかったのだろう? なかなかキミと一緒に横浜に行く機会がなかったからね」
仕事から帰宅した諭吉から手渡された物は、以前横浜で見かけた焼き菓子店の、手に入れられなかった限定の品だった。
「うわぁ、覚えててくれたんだ……。嬉しいな〜。ユキチさん、ありがとうございます」
葵は手にした焼き菓子の袋を、満面の笑みで眺めた。
『お夕食の後に、お茶を入れて食べましょうね!』
嬉しさを隠せない葵は諭吉の脱いだコートを片手で受け取りつつも、心は袋の中身に奪われていた。
「アオイ」
「はい?」
諭吉の呼びかけに葵は彼の方に向き直り見上げると、
「……っ」
「!!」
額に掛かる前髪がふわりと持ち上がったかと思うと、ふっと柔らかい感触が落ちてきた。
「──っ! なななっ!!」
前触れのない、しかも、優しい接吻に、葵の頬は熱くなると同時に身体の動作が停止する。
「嬉しそうなキミを見ていたらつい、ね」
諭吉はふっと目を細めながら口角を僅かに上げつつ葵を見やった。
「つ、ついって……不意討ちは心臓に悪いです……っ」
葵はやっと息を吐くと、両手が塞がっていたため少し恨めしそうに諭吉を睨みつけたが、そんな仕草も彼には露程も堪えてはいないようだ。
「さあ、早く食事にしようじゃないか。デザァトの時間がなくなってしまうよ」
諭吉は嬉々とした口調でそう言うと、首もとのタイを緩めつつ自室へ向かっていった。
そして数日が過ぎたある日のこと。
「梅と桜が同時に見られるのって、なんだか得した気分」
諭吉に頼まれていた用事を済ませた帰り道。
少し散歩がてらにと葵が立ち寄った公園では、見頃を終える前の梅の花と、早咲きの可愛らしい桜の花が、冬の寒空に彩りを添えていた。
「そういえばもう二月も後少しかぁ。日数が少ないから、あっという間に終わっちゃうね」
諭吉の元で世話になるようになってから、葵の生活は一変した。彼を中心とした生活は日々忙しく、来たばかりの頃は一日があっという間に過ぎていたが、最近やっと慣れてきたこともあり、こうして少し寄り道する余裕も生まれていた。
「二月といえば、節分の日には、いつも家族で豆撒きしてたよね。今年の鬼は、またお父さんがやったのかな」
この時代に残ったことに後悔はないが、急にいなくなった自分のことを心配しているのではないかと、葵が家族を思い出さないことはなかった。
「そしたら次のイベントは、バレンタイン用のチョコ作りをヒカリと一緒に……あっ!」
セントバレンタインデー。葵がいた時代において、日本の女性なら大抵乗っかっているだろう、好きな男性にチョコと共に想いを告げる行事。もっとも、本命以外の相手にあげる義理チョコや、友人にあげる友チョコなど、必ずしも意中の相手に贈ると限った行事ではないが。
葵は毎年、妹と一緒に家族の男性──祖父、父、弟、幼馴染みの分を作っていた。
本命と呼べる相手がいなかった葵は、家族用のチョコしか作ったことがなかったが、妹はきちんと本命用として『宗助』の分は別に作り、手渡していた。
「私も相手が出来たら、その時には作って渡そうって思ってたんだよね……って、今日って何日!?」
しみじみと感傷に耽りつつも慌てて日付を意識すると、十四日はとうに過ぎていた。
「忙しさにかまけて、すっかり忘れてた……でも、初めての本命相手だし、ちゃんと作って渡したいな」
この時代のチョコレートはまだ、庶民の手の届く物ではない。葵はそれ以外で何か作れないかと、思考を巡らせた。
「これは?」
食後のひととき。居間くつろいでいた諭吉の元に、葵はティーカップを二客、テーブルの上に置いた。一つは紅茶、もう一つは薄い黄身色に固まったものが入っている。
固体の方のカップを見た諭吉は、訝しげに葵に聞いてきた。
「プリンを作ってみたんです。お口に合うといいんですけど……」
「ワタシの為に? ……そうか。では、謹んで頂こう」
(なんだか、普段作っている料理を食べて貰う時より、緊張するな……)
スプーンで掬って一口、二口と口に運ぶ諭吉の動作を、葵は祈るような気持ちで見つめていた。
諭吉はスプーンを置き、紅茶を飲んでから一息つくと、優しげな眼差しを葵に向けた。
「ふむ。プディングは店で出された物しか食べたことがなかったが、これほど美味しいと思ったことはないよ。ありがとう、アオイ」
「……ふぅ。良かったぁ!」
緊張で身体を強張らせていた葵は、やっと肩の力を抜いた。
「『バレンタインデー』を思い出したのが今日で、チョコはちょっと手が届かなくて。でも、ユキチさんは、そ、その……初めて好きになった人、なので……」
「バレンタインディ……か」
諭吉が少し含みのある言い方をしたが、葵は気づかなかった。
「ちゃんと作って、気持ちを伝えたかったんです」
「…………」
葵は恥じらいながらも自分の想いを伝えると、やっと諭吉が黙したまま思案していることに気づいた。
「ユキチさん?」
「アオイ。キミは、バレンタインディがいつだか思い出した、と言ったね」
「? ええ」
何故改めてそんな事を聞くのだろう。葵は目を瞬かせつつも、頷いた。
「ということは、ワタシの気持ちが届いた、と受け取っていいのかな」
諭吉は椅子から立つと、真っ直ぐな眼差しで葵を見据えたまま近付いてきた。珍しく真面目な彼の表情に葵は圧倒されながらも、その瞳と言外にほのめかされていることを、一生懸命考えた。
「ユキチさんの気持ちが、届く……? ──あ!」
横浜の店の、限定焼き菓子。それは数日前──二月十四日に諭吉から手渡されたもの。
(あのクッキーって、そういう意味のものだったの!?)
葵は中途半端に開けた口を慌てて手で覆ったが、たった今気づいたということは、誰が見ても明白だった。
諭吉は、葵のそんな反応を少し意地悪げな、いや、愉しげな瞳で見やる。そして、葵の座っている椅子の背もたれに手を掛けると、葵の耳元に唇を寄せた。
「ならば改めて、キミに気持ちを伝えよう。あの時の焼き菓子にジェラシィした気持ちも含めて、ね」
「えっ、ジェラシー!? ……ん……っ」
耳元の囁きは微かな刺激。続けて塞がれた唇には、丁寧で柔らかな甘い口づけ。
「…………っ」
「──ふはっ……。ユ、ユキチ……さん?」
葵の頭は熱に浮かされたようにぼーっとしていたが、解放された唇で諭吉の名を呼んだ。すると、彼は満足げな笑みを浮かべて葵を見下ろし、
「好きだよ、アオイ」
そう言うと、もう一度彼女に、今度は深く口づけた。
2014年03月02日UP
お読み下さり、ありがとうございます。
一応バレンタインネタです。少し(いや、かなり)出遅れましたが、こんな話に纏まりました。
なんか良いバレンタインネタないかな〜と妄想するも、気づけばその日を過ぎ。
ラブコレのイベントに合わせられたらと小噺を考えるも、程よいネタが浮かばず。
友人にこれはあれはとネタを提供して頂き、ぱっと思いついたカップリングは諭吉×葵だったという、
なんとも、未だに彼の呪縛から抜け出せない人間なのでした…。
本編は、いつの間にか過ぎていたバレンタインに気づき、何とかする葵ちゃんと、
彼女の時代にバレンタインという風習があるのかわからないが、敢えて何も言わずに贈り物をするユキチさん。
あの時代ってチョコレートは庶民が手にできる代物ではないようなので、代用品を考えまくりました。
羊羹、スイートポテト、カステラ、マドレーヌなどなど…。
そんな中、スポットライトを浴びたのは『プリン』でした。
理由は単純。材料が卵、牛乳、砂糖だけで出来る! 簡単手間いらず!
実際にさくっと作れたので、あの時代の葵ちゃんでもいけると判断。
…こんな小噺を完成させるために、わざわざプリンまで作るなんて、色々相当こじらせてるなと、痛感した次第。
少しでもお楽しみ頂けていれば、幸いです。