「景時さんの発明……すっごく綺麗だったね!」
「ええ……本当に素晴らしかったですね」
まだ興奮が冷めないのか、望美は少し蒸気を帯びた頬と共に、笑顔で話しかけてくる。譲には眩しく映るその笑顔が、今は景時に対する賞賛の笑顔だと思うと、少し複雑だった。
おそらく景時は彼女の喜ぶ顔を見たくてあの花火を作製したのであろう。現代で見るものかのように再現された花火は、望美を大いに喜ばせ、終わった今でもこの状態だ。
(先輩の笑顔を見られるのは嬉しいけれど、景時さんには少し妬いてしまうな)
妬くというより羨望に近い念を抱いた相手の景時は、今はここにはいない。勝浦の浜辺には望美と譲の二人しかいなかった。景時の発明品の披露が終わった後、他の仲間たちは宿へと引き上げていった。譲も当然帰ろうとしていたのだが、何故だか望美が帰ろうとしなかったため、引きずられるような形で今に至る。
その望美は、今は特に何かを話し始めるようでもなく、海を見続けていた。譲も同じように眺めていたのだが、いつまでもこのままというわけにもいかない。それにそろそろ間も持たなくなり、譲は遂に口を開いた。
「先輩、なにかあったんですか? 他の人はもう帰ってしまいましたし、俺たちは明かりも持っていませんから、月が隠れてしまうと帰れなくなるかもしれませんよ」
空はよく晴れており、浮かぶ月の周りに雲はなかったが、天気はいつ変わるかわからない。宿まで遠くないとはいえ、暗闇では帰ることもままならなくなるだろう。
「……それでも、いいかなぁ」
「──え?」
望美が何を言ったのかよく理解できず、譲は彼女に顔を向けながら反射的に聞き返していた。
「帰れなくなってもいいかなぁって」
「そ、それはどういう……?」
譲は望美の瞳の奥に、一瞬だが揺らぐ何かを目にした。いつもの彼女からは見ることのない迷いのような何かを。
望美は譲の質問には答えず、自分のスニーカーの紐に手をかけて引っ張った。紐があっさり解けると、手でぐいっとスニーカーをつかんで脱ぐ。両方脱ぎ捨て、靴下に砂が付くのもかまわず、砂の上に立つと今度は靴下を引っ張って脱いだ。そのまま小走りに駆け出して海に向かって行く。
「せ、先輩っ! なにやってるんですかっ」
一連の動作の意図が読めず、やっと声を出せたときには、打ち寄せる波が彼女のふくらはぎを見せたり隠したりしていた。
「譲くんも入らない? ちょうどいい冷たさで、気持ちいいよ」
まるで譲を迎えるように両手を広げて誘ってくる望美。
「いくら夏でも、夜なんですから。暗くて危ないし、冷えますよ」
早く上がってください、と数歩進んで声をかけながら望美に近づいていった。
譲はおもむろに懐に手を入れると、いつも持ち歩いている布の感触を確かめる。濡れた足も、これなら拭けるだろう。その前に海から上がって貰わないと。
「平気だよ。岩とか無かったのは昼間のバーベキューの時に見てたしね」
少しずつ沖へ進んでいくように見える望美を、不安な気持ちで見守っていた。
(いつもの先輩らしくない…… )
先ほどの発言はどういう意味だろうか。
望美はいつもこれから先のことを見据え、凛とした眼差しをしていた。譲は元の世界では見ることのなかったその眼差しに、戸惑いながらも今まで以上に不思議と心が惹かれていったことを思い出す。
だが今の彼女の目に浮かぶのは迷いのような揺らいだもの。
望美が上がってくる様子がないので、譲も仕方なしに腕をまくり、草履と足袋を脱いだ。湿った砂を踏み締めると少しひんやりとして、気持ちいい。袴をたくしあげ下がらないようにしてから、そのまま望美のところまで向かう。
波は望美のふくらはぎから膝辺りまでをゆったりと高さを変えて撫でてゆく。譲がそこまで行くと袴が濡れてしまうため、ギリギリの所で立ち止まると、
「先輩、戻ってきてください。余り沖の方まで行くと、急に深くなるかもしれません」
「平気だよ。譲くんは本当に心配性だなあ」
ふふっと笑いながらも望美は譲の方へと歩いてきた。譲は安心し、差し伸べてくる望美の手を引き寄せようと掴んだ瞬間、逆に望美がぐいっと引っ張ってきて、バランス崩す──
「──うわっ! 先輩っ!!」
「あっ」
──バシャン!
見事に抱き合うように海に倒れ込んだ。譲は後ろから倒れ込んだ望美に覆い被さるような体勢になりながらも、水底に膝と手をついて自分の身体を支える。望美には何とかぶつからずに済み、顔面もかろうじで水面に浸かる事態を避けることが出来て、ほっとする。
「ふう」
一息ついて顔を上げると、目の前には望美の顔があった。望美がきょとんとした顔を見せ、譲は目を瞬かせると、
「す、すみませんっ!」
慌てて仰け反った為、望美と同じように尻餅をついた。望美は胸まで浸かったまま、
「譲くんも濡れちゃったね。はは」
のんきに笑った。
「先輩、笑い事じゃないですよ……」
譲は着物の洗濯のことや、替えがあったかなどが一瞬頭を過ぎったが、それより望美の様子が気にかかった。いつもの彼女では取りそうにないこれまでの言動。
望美は緩慢な動作で立ち上がると、まだ座ったままの譲を一瞥してから、ふいと沖の方へ顔を向ける。何かあるのかと譲は手をついて立ち上がり、同じ方向を見た。しかし夜の海は穏やかな水面のままで、何も見えるものはない。
「このまま、先に行きたくないんだ」
ぽつりと呟く望美を見やるが、彼女は譲を見ようとせず、沖に目を向けたままだ。
「先って、本宮のことですか? 嫌なら先輩は無理に頭領に会わなくてもよいと思いますが」
譲は見当違いのことを言っているんだろうと何となく判っていたが、それでも言葉を口にする。
「楽しいときってあっと言う間に過ぎてしまうよね。そしてこれから来る先のことが、辛いものや苦しいものだとしたら、今のままいる方が、良いような気がしてしまうんだ」
望美は沖に向けていた目を真下の水面に移し、俯いて話す。譲を見ていない望美の言葉は、この場合は誰に向けたものか。
譲には望美の言うことの意味がいまいち掴みきれなかったが、このままみんなで勝浦に居続けたい、と言っているようだった。望美にそう思わせるものはいったい何なのか。譲はそれが気にかかったが、かける言葉が見つからず、ただ望美を見守り続けた。
俯いていた顔を上げて、望美は譲を見据える。その瞳は、先程見た迷い含んだものだった。
「このまま進んで何も変わらなかったらどうしよう。ううん、前より酷く変わってしまうとしたら? 私は何もしない方が良かったんじゃないか。そう思うと怖くて……」
寒さで震えているわけではない望美が、自身の身体を抱き締めながら口にしたその内容は、譲を混乱させるものだった。
(前より変わる? 何もしない方が良い? 先輩は何を言っているんだ)
普段とは明らかに違う、酷くおびえた様子の望美。そんな彼女に戸惑いつつも、見ているだけで何も出来ない自分が譲はもどかしく思い、手は知らないうちにこぶしを強く握っていた。
「先輩をそこまで怖がらせているものは何ですか? ──俺では、力になれませんか?」
譲が側まで近づくと、望美はハッと我に返ったようだ。
「譲くん……」
一瞬、譲を縋るような目を見たかと思ったが、すぐにそれは押し殺されたものへ代わり、眉根を潜めた切なげな笑顔を作る。
「あはは……駄目だね。譲くんに愚痴るなんて。……うん、でももう平気。何でもないよ。変なことに付き合うことになっちゃってごめんね」
明らかに無理をしているとわかる望美のその態度に、譲の身体は考えるより早く彼女を胸に抱き寄せた。
「──っ!」
「……そんな顔で言われても、説得力ないですよ。確かに俺では頼りないとは思いますが。……それでも先輩の為に出来ることをしたいと思っているんですから。……だから独りで抱えたままにしないで下さい」
為されるがままの彼女の身体は僅かに震えていたが、やがてそれは止まる。
「………………」
暫くの沈黙の後、望美は口を開いた。
「…………ありがと」
彼女のくぐもった声に、譲はようやく自分の取った行動を理解し、慌てて望美の身体を自分からぐい、と引き剥がした。
「す、すみませんっ! 俺、先輩が心配で、その──」
勢い良く引き剥がされた望美は、まくし立てる譲に圧倒され、目を見開いて譲を見た。譲と目が合うとはにかみながら目を伏せた。
「譲くん……」
呟くと同時に望美の両腕が譲の背後に回り込んだかと思うと、先ほどとは逆に望美が譲の胸に顔を寄せ、ぎゅっと譲を抱き締めた。
「せっ、先輩──っ!」
「譲くんの心臓の音、こうしていると伝わってきて、安心できる」
(先輩は自分で何をしてるか判っているのか!?)
望美の予測不能の行動に内心穏やかではない譲は、どう返して良いか考えあぐねていた。だが、先程の望美の様子を思い出して、無理矢理冷静さを保つことに全力を注いだ。そして望美の頭にそっと手を乗せ、ゆっくりと髪の毛に沿って撫でる。望美は譲の胸板に顔を付けたままで動くことなく、為されるがままだった。
どれくらい時が過ぎただろうか。望美がゆっくりとした動作で、まるで離れがたいと思わせるように譲から身体を離す。自然に譲も撫でていた頭から手を離した。
望美が顔を上げて、譲を見つめる。頬はほんのり紅く染まって見えて、上目遣いの瞳はまっすぐ譲を捉えて離さなかった。
「もう、大丈夫だよ。ほんとにありがとう」
「……いえ。落ち着いたようで俺も安心しました」
心地よく感じていた望美の身体の重みが無くなり、少し物足りなさを感じながらも譲は答える。
「………………」
望美は変わらず譲を見続けているのだが、その視線の意図が読めずに譲は惑う。
「譲くんは、優しいね。何も聞かずに私のわがままを聞いてくれて」
一呼吸置いたところで、頬をぷくっと膨らませふいっと横を向く。
「でも、その優しさは、なんかずるい」
「ええっ!? ずるいって、急に何ですか」
望美の言っていることが更に理解し難いものになり、譲はますます困惑する。
「誰にでもそんなに優しいのかなと思うと、その優しさに妬いてしまいそうになるよってこと」
膨らませた頬を赤らめつつ、目は逸らしたまま望美が呟いた。
「──……え、それって……?」
聞こえた言葉は、聞き流してしまいそうなくらい小さくて、譲は目を瞬かせて聞き返す。だが、望美はそっぽを向いたまま、何も言ってはくれない。
そんな望美の態度に、譲は淡い期待を抱きそうになるが、努めて冷静に口を開いた。
「ずるいのは先輩も同じです。さっきの行動の意味、俺は幼馴染みに対してのものとして受け止められるほど、出来た人間じゃ、ない」
譲はいつも通りに平静さを装っていたつもりだったが、語尾には押し殺し損ねた感情が混じった。それが彼の冷静さを失わせたのかもしれない。伸ばした手は望美の頬を撫でる。望美が少しびくりと身体を竦ませるが、それにかまわず、滑らせるように顎に指を当てて、くいと望美の顔を上に向かせた。望美の瞳は譲を映し出し、その表情は恥じらいを含んでいるように見え、いつもより望美を愛おしく感じた譲の胸は熱くなる。やがて望美は合わせていた目をゆっくりと閉じた。無防備な望美を目の前にして、譲はその軟らかそうな唇に親指を這わせると、望美は少し口を開いて軽く息を吐く。譲は指を離すと、顔を寄せてその唇に優しく自分の唇を重ねた。
「っ──」
声にならない声が望美の口から漏れそうになるが、譲の唇がそれを塞ぐ。望美は拒むことなく譲に任せて、譲はその感触に酔いしれた。暫くそうしていたが、離れるのを惜しみつつどちらからともなく身を引いた。
望美の閉じていた目がゆっくり開くと、真っ直ぐ譲を見つめる。月明かりのみの状況だが、お互い赤らめた顔がはっきりとわかり、気まずさからか二人は同時に目を逸らした。
そうして暫くの間、二人は黙ったままその場に佇んでいた。波は変わることなく足元に寄せては返す。
譲は望美が自分を拒まなかったことがどういう心裡なのか確証がない上、それを聞くことを躊躇っていた。
「そ、そろそろ帰りましょうか? 遅くなってしまったので、みんな心配しているかもしれません」
譲は望美の気持ちを問うことを無意識に避けてしまい、先程までの出来事を無かったかのように振る舞う。
望美は軽く目を見開いて譲を見つめたかと思うと、すぐ眉根を少し潜めた切なげな笑みを浮かべる。
「そう……だね」
そう言うと、くるっ向きを変えてゆっくり波打ち際まで歩き出した。
譲の視界に入ったその背は、先ほどまで彼が感じていた迷いや怯えのある望美とは違い、普段と同じ、いや、普段以上に決意と頼もしさを感じるものだった。
だが、その背が逆に彼にとって、何故だか儚げに映り、急に不安を覚える。このまま進んでいく先が、彼女を遠くへやってしまうような……そんな焦燥感に駆られた。
「……先輩」
譲は望美の後ろに駆け寄り、彼女の手をそっと掴む。ひやりと冷たいその細い手に、先程の出来事が夢だったかのように、彼は急に現実へと引き戻された。
(──俺は今更何を言おうというのか)
手を掴まれた望美は立ち止まると、横に並んだ譲を不思議そうな顔で見つめていた。
「譲くん?」
「……先輩、俺はいつでも側にいますから」
今の譲には、そう言うのが精一杯だった。自分はまだ彼女から遠いところにいる感覚を覚え、それ以上のことを言えなかったのだ。
幼い頃から見続けていた存在……、今だって手の届くところにいるというのに。目の前にいる望美は、どこか少し違う印象を受けていたこともあるかもしれない。
その望美の表情に笑みが戻る。──見慣れたはずの、知らない微笑。
「うん、ありがとう。とっても心強いよ」
掴んでいた手が握り返されて、譲は少し逡巡する。しかし望美は放さず繋いだまま、海岸沿いを歩き出した。譲も望美に引かれるまま、共に月夜の明かりに照らされた浜辺を歩き出す。
──いつでも側にいて先輩を守る。
この世界に来てから強く願うようになったこと。これから先に待ち受ける物が何であろうと、その決意が変わることがないはずなのに、今の望美を見ていると暗澹とした思いが生まれ、得も言われぬ焦燥感に駆られた。それは譲が日頃見ている夢の影響もあるのだろうか。
しかし譲は、そんな思いを振り払うかのように軽く頭を振ると、繋がれた手の感触を確かめるよう、今はただ、密かに握り返すのだった。
2010年09月04日UP【HPのみ】
ここまで読んで下さってありがとうございます。
夏コミ合わせのつもりが、もう月が変わってしまいました(苦笑)。
友人に『お前の話には何か足りないと思っていたのだが、ラブが足りないんだ』と言われたのがきっかけで捻り出した話です……。
ラブ…と考えて、水に濡れたら色っぽさが出るだろうか?と何故か思考はそちらに向かい、なら濡れてもらおうと海へ。
何か取り違えてるよね、自分……(いや、それ以前にラブを求めるなら勝浦はないよな・苦笑)
この二人はたぶん、次の日からは今まで通りの望美と譲な気がするよ(汗)。少しずつ進んでいけばいいよ(苦笑)
目指したものの結果はどうあれ、いつも通り、ほんのりドキドキできる譲望テイストであればいいなと願って…。