もう日暮れも近い時刻、日中の暑さは未だ大気に残っており、夏という季節を改めて感じさせていた。
氾濫したままの熊野川の原因を調べる為に一日中歩き回ったのだが特に成果もなかった。調査の続きはまた翌日へ持ち越すことにし、夕餉までの時間は自由時間ということで解散する。
九郎は一人、勝浦の宿の庭の一角で剣を手にとり稽古をしていた。適度に動いた後、一息つく。ふともう一角の塀際に目をやると、しゃがみこんだ姿の将臣が確認出来たので、手合わせでも願おうと近寄り声をかける。
「将臣、良ければ俺と手合わ――っ」
九郎は言葉を途中で詰まらせる。声をかけてから将臣の影で見えなかった望美の存在に気づいたからだ。彼女は地面に座り込み塀にもたれ掛かりながら、すーすーと気持ちよさそうに寝息をたてていた。
「しぃーっ」
将臣が人差し指を口に当て、声を出すなと合図を送る。九郎は思わず口をきつく結んだ。そのまま二人は足音をたてないように後ずさりし、七、八歩離れたところでようやく九郎が小声で将臣に尋ねる。
「なんであんな所で寝てるんだ!? こんな季節とはいえ、放っておいたら風邪でも引きかねないぞ」
「いや、オレもさっき見つけたばかりでな。どうしようかと考えあぐねていたところだったんだ」
一度寝たあいつを起こすのは至難の業だしなあ……と後頭部を掻きながらボヤく将臣。
寝起きが悪いと聞いたことはなかったが、幼なじみの彼が言うのだからそうなのだろう。九郎は胸中でいつも同室の朔と毎朝起こしに行っている譲を思い苦笑する。
「九郎、悪いけどあいつが起きるまでそばにいてやってくれないか?」
「――は?」
「なあに、疲れて昼寝ってところだろ。一眠りしたら自然に目が覚めるって。じゃ、宜しくな」
将臣は返答する隙を与えずに何気ない口調で望美を九郎に託し、自分は用事があるからとそそくさと門から外へ出て行った。
「お、おい将臣っ! ――ったく困ったな。だが、本当に風邪でも引かれたらそれこそ面倒だしな……」
渋々という様子で再び望美に目を向け軽くため息をつく。仕方ないとかぶり振り、掛けられるもの持ってくるため屋内へ入っていった。
◆ ◇ ◆
適当な羽織を見つけて戻ってきたが、望美は相変わらず起きる気配もなく寝入っている。持ってきた羽織を望美にかけた後、隣に腰を下ろし塀に身を預けた。
視線の高さが変わっただけで、見える風景も違って見える。新たな発見をしたような気がして自然と顔が綻んだ。
「しかし一体こいつはなんだってこんな所で寝てるんだ……」
辺りを見回しても特別何かあるわけではない。背後は宿を庭ごと囲うように塀が巡らされており外から人目に付くことはない。宿の縁側の方角を見ると手前に少し背の高い草が繁っており、座っている二人の姿を見つけることは困難だろうと想像できる。現に九郎が気付けたのは反対側の同じ辺りまで庭に出ていたからだった。
「わざとこの場所を……?」
ある考えに至り呟くと同時に、
「――う……ん」
望美の口元からかすかに声が漏れる。九郎は側に寄り様子を窺ったが、すぐに規則正しい寝息に戻り起きる気配はない。だが、近寄りついでに顔を見ていると頬にうっすらと跡があることに気づいた。
「……涙の跡?」
――人知れず泣いていたというのか。
涙を流すほど泣くということは普段の望美からは想像し難かった。いや、普段からあまり感情を隠すことなく表に出す彼女は、笑ったり怒ったり泣いたりと忙しい。そういった中で涙を見ることは何度かあった。
だが、今日は何故こんなところで隠れて泣いていたのか。尚且つ、そこに至るまで一体何があったのか、と気になり始める。
最初にここにいる望美に気づいたのは将臣だった。彼は涙の跡に気づかなかったのだろうか。
いや、それは考えにくい。ここにいる望美を見つけられるくらいだ。気づかなかったはずはない。では何故九郎に側に居るように言って、自分は去ってしまったのか。原因は将臣にあるのか。それとも別の何かが原因で、将臣はそのためにここを離れたのか……。
ぼんやりと望美の横顔を眺めながら、去っていった将臣から望美に思考が戻る。
そういえば、まれにどこか遠くを見つめるような眼や寂しげに微笑んだりする望美を見かけたことを思い出す。だが、そのあとの望美は決まってなんでもない風を装い、いつも通りの態度で接してくるので、九郎は改めて訊ねようとはしなかった。
――いや、本当は訊ねられなかった。望美からは訊かれるのを拒否するかのような雰囲気を感じていたからだ。そんな彼女を見ていると、九郎はいつも何故だか無性に胸が苦しくなったが、結局何も出来ずに今に至っている。
そんな思考を暫し巡らせるが結論が出るはずもなく、九郎は自身でも気づかぬうちにため息をもらした。
「……しかし、こいつが起きたときに俺がいていいのだろうか……」
人に知られないようこんな所にいるというのに。
おもむろに立ち上がり、静かに離れようと足を踏み出しかけたその時、
「――……嘘」
「!?」
その呟きに九郎は振り向いて腰をかがませ様子を窺うが、またしても起きる気配はなかった。きっと良くない夢でも見ているのだろう。
再び離れようと立ち上がりかけた時、望美の目尻から頬に零れ落ちそうになっている涙が視界に入った。
◆ ◇ ◆
「俺は何をしているんだ……」
とりあえず望美が起きるまでは見守ろうと決め、再び隣に座り込んだはいいが、だが本当にそれでいいのかと自問を繰り返していた。
「結局何がしたいのか……」
そっと首を傾け覗き込み再び望美の顔を見る。これほど近い距離で見る機会がなかったせいか、先程よりついまじまじと見つめていた。
――意外と長いんだな。
閉じられた瞳を縁取る整った睫毛を見ると、その端から頬の途中まで涙が零れ落ちていた。そっと人差し指で拭う、と同時にふっくらした唇に視線が止まった。軽く閉じられた桃色のそれはとても柔らかそうだ。そう思うと同時に涙を拭った指先はそのまま唇に自然と引き寄せられる――
「……ぅうん……」
「――っ」
触れられたせいか望美は小さな声を漏らし寝返りを打つかのように首を軽くよじる。
――ことん。
その拍子に頭が隣にいた九郎の肩にもたれ掛かかるが、何事もなかったかのようにそのまま寝入っていた。
九郎はその間とっさに唇から離した手を宙で止め、そのままに身動きせず息を呑んでいた――幸い目を覚ます様子はなく、ゆっくり手を戻して息をつく。
――何をやっているんだ!? 俺は。
望美の唇に触れた指先と頭が載せられた肩から全身へ熱が帯びた感覚が広がり胸の鼓動が激しくなる。
無意識にあんなことをしてしまうとは……ヒノエや弁慶ですらやらないのではないか。無防備な相手に対し自分は何をしようとしたのだろうか。
自分のとった行動に未だ戸惑いを隠せず鼓動は落ち着かないまま悩み始めた九郎だが、肩に掛かる重みと耳に入ってくる規則正しい寝息のせいで思考はまとまる気配がない。眉間には皺が寄り険しい表情のまま時が過ぎてゆく。
「う……ん……」
九郎にとっては果てしなく長く感じた時を経て、ようやく望美が起きた。うっすら目を開き、二、三度瞬きをすると肩にもたれ掛けていた頭をゆっくり起こす。
「あれ、私いつの間に……」
その拍子に掛けられていた羽織がずり落ちるが、そのことには気付かず隣の九郎の存在に気付き、驚いて声を上げる。
「――って、く、九郎さんっ!? どうしてここに?」
がばっと上半身を起こして少し九郎との距離を取る。その望美の行為に九郎の顔が一瞬歪むが、すぐに何事もなかったかのように少し呆れたような表情へと変わる。
「目が覚めたようだな。こんな所で寝ていたら、いくら何でも風邪を引きかねないぞ」
望美に掛けていた羽織を引き寄せ、たたみ始めた。
「最初に見つけたのは将臣だ。俺は将臣に手合わせを願おうと思って声を掛けたら、ここでお前が寝ていたというわけだ。それで目を覚ますまで居てやってくれと言われてな」
九郎は将臣に対して少し不満が残ると言いたげな口調で返す。
「そうだったんですね。ありがとうございます。でも、だったら起こしてくれても良かったのに」
「なかなか起こそうとは思わないものだぞ。寝起きが悪いと聞かされてはな」
「ええっ!? 寝起きが悪い……ですか」
驚いた様子の望美は少し何か考えたかと思ったら、すぐ納得したような顔に変わり呟いた。
「……将臣くんにはバレてるのか……」
「? どういう意味なんだ」
望美の呟きの意味が飲み込めない九郎が尋ねるが、望美は強引に話を変えた。
「もうそろそろ夕餉の時間かな。九郎さん、行きましょう」
立ち上がり九郎から少し離れてスカートに付いた土を払う。九郎も立ち上がり同じように着物に付いた土を払った。
「明日も調査で歩き詰めになるだろう。疲れているなら余り無理するな」
本当は人目を忍んで泣いていた原因を問いたかった九郎だが、口は違うことを言っていた。
「大丈夫です。そんなにやわじゃないですよ、私。それに明日はたぶん本宮へ行けますから」
くるりと九郎に背を向け、空を見上げながら少し意味深に望美は言う。
だがそれよりも意図的に向けられた背が普段見ている彼女より何故か小さく儚げに映り、九郎の足は自然と前へ踏み出していた。
「無理、するな」
「――っ!? ちょ、く、九郎さ――」
望美を後ろから抱き締め、耳元で囁くように九郎は言う。
望美は普段の九郎からは考えにくい彼の行動に驚きで二の句が継げない。自然と顔は熱を帯びて赤くなり胸の鼓動はドキドキと高まる。全身は抱き締められているせいではなく、緊張して動かすことが出来ずにしばらく為すがままであったが、やっと絞り出すように九郎に声を掛けた。
「わ、わかりました。だから九郎さん、腕……」
九郎は言われてからやっと自分が何をしているか気付いたようだ。顔を急に真っ赤に染め、抱き締めていた腕を慌てて解いて後ろへ下がる。
「俺はその、お前が小さく見えて……だな……」
必死に取り繕うが言い訳のように感じ、途中で言葉を止める。
「すまない」
「いえ、ちょっとビックリしましたけど……」
望美は九郎に向き直り頬を赤く染めて、はにかみながら返した。だがすぐに切なげな微笑みに変わる。
「でも、いきなり抱き締められたら誤解しちゃいますよ」
「――誤解って……いや、俺はお前が……」
顔を赤くしたまま九郎が言いかけたその時、
「――先輩〜、夕餉の時間ですよ〜。先輩〜?」
「!?」
宿の屋内から譲の声が聞こえてくる。何故か二人は同時にしゃがみ込み、草の陰に隠れる形となる。
譲は縁側を歩きながら呼びかけていたが、その声が次第に遠のいていった。
「ふぅ……」
「はぁ……」
二人は似たような息を吐き、顔を見合わせる。と同時に先程のやり取りを思い出し二人で再び顔を赤くする。
程なくしてから望美が取り繕うように言った。
「ゆ、夕餉の時間みたいですね。行きましょう!」
「そ、そうだな。皆を待たせるのも悪いしな」
望美の言外の意味をくみとり、九郎もそれに合わせて返す。
草の陰から縁側の様子を窺い、誰も居ないことを確認し望美が立ち上がる。九郎もそれに倣い立ち上がり、二人で邸内へを向かって歩き出した。
――今はまだ、このままで。
2010年3月28日UP【HP用に加筆修正あり】(初出:2010年03月21日配布ペーパーにて)※(注)この話は『熊野夏話』に再録していました。
読んで下さってありがとうございます。
今回は春コミ合わせでペーパーに載せられる短めの話を目指して書いてみました。
(中途半端な長さになり、微妙な仕様のペーパーとなりましたが…)
結果、何故か夏の熊野…えぇ、この舞台は一番書きやすいと思っています、個人的に!
ゲーム上では九郎さんは自覚無しの時期ですよね。そうなんですけど、今回は自覚無し望美Love設定になってしまいました…何故だ…。
そのため、ちょっと犯罪者的な九郎…スマン。あと、将臣は神か!というくらい望美のことを理解しています。幼馴染すげぇ、と望美が認識します。
色々書くと言い訳になりそうなので、もう止めときます。雰囲気でなんとなく読み取っていただけると助かります。