月夜温泉恋話
──勝浦・逗留中の宿にて
「九郎さん、どこへ行くんだろう?」
望美は、宿の門から出て行く九郎の後ろ姿を目にして呟いた。
九郎の兄、頼朝の命により、熊野水軍の協力を得るために熊野に来た望美たちだが、熊野本宮への路が、熊野川の増水のために通れなくなっていた。
水が引くまで勝浦に滞在することとし、宿で二回目の朝を迎えた日。川の氾濫はまだ収まらず、前日と同様、休みとなった。
そんな日の、黄昏時までまだ少し時間ある頃に、宿を出て行く九郎の姿を見かけた望美は興味が湧いた。以前の時空では、このような姿を見かけることがなかったためでもあり、気づけば、こっそりと後をつけていたのだった。
九郎は湊町の方ではなく、人気のあまりない山の方へと、どんどん進んでいく。はじめは気づかれないように後をつけていた望美だったが、男性でかつ、望美より脚のリーチが長い九郎の歩く速度は、山道であるにもかかわらず速い。いつしか望美は、気づかれないよう気を配ることもせず、ただひたすら付いていくのがやっとになっていた。
暫くは道なりに進んでいた九郎だが、やがて獣道らしきところへと進路を変えた。途端に足場が悪くなったが、彼の歩む速度はほぼ落ちることがない。
(さ、さすがと言うべき? まさか、こんな道を行くなんて思ってなかったよ……)
斜面の角度も増し、想像以上の尾行となってしまったことに、望美が内心で弱音を吐いたその時だ。踏み出した足がズルッと滑り、身体のバランスが崩れた。
「うわっ」
体制を立て直そうとするが、上半身が後ろへと倒れそうになり、望美は咄嗟に腕で宙を掻く。
──がしっ。
「えっ!?」
手首を掴まれ、強い力でぐいっと身体ごと引っ張られた。
「馬鹿! 気をつけろ」
望美の身体が、今度は前のめりになるが、掴まれた手首で身体ごと上に持ち上げられ、強引に立たされた。
「ふぅ、助かった」
望美は空いている方の手で胸を撫で下ろして、思わず安堵を口にすると、相手は遠慮のかけらもない声を浴びせてきた。
「助かった、じゃないだろう。お前、こんなところで、何をやっているんだ?」
「あっ、九郎さん……」
目の前には望美が尾行していた相手、九郎が立っていた。怒っている様子はないが、不審さを隠すことなく顔に出していた。
「えっとその……あ、あの、助けてくれて、ありがとうございます」
礼を言っていなかったことに気づき、ひとまず望美は慌てて頭を下げる。
「いや、たいしたことじゃない」
礼を言われたのが意外だったのが、九郎は少しうわずった声で返事をした。
「それからその……手、離してもらってもいいですか?」
「あ、ああ」
九郎が慌てて望美から手を離す。
腕一本で身体を引っ張られた衝撃で、掴まれていた部分は少し赤くなっており、望美はその部分をそっとさすった。
「手荒くしてすまなかった。痛むか?」
「いえ、大丈夫です。それより九郎さんは、こんなところまで来て、何をするつもりなんですか?」
九郎の気遣いを嬉しく思うも、望美は先の彼からの質問の回答を、質問で返した。尾行していたことを正直にいうには、少しばつが悪いと思ったからだ。
「俺は剣の鍛練をしに来たんだ。……しかしお前、よくここまで付いてこられたな」
九郎の発言に、望美は目を見開く。
「それってもしかして……?」
「ああ、気づいていたさ。獣道に入った辺りで、諦めるかと思っていたんだが」
何故だか、どこか嬉々として言う九郎。
「なあんだ……ばれてたんだ」
そんな彼の様子を不思議に思いながら、望美はがっくりと肩を落とした。ならば、尾行していたことを変に隠すこともなかったのではと思った矢先。
「それでだ。お前はなんで、俺のあとを付けてきたんだ?」
九郎の口調は一転して、問いただすものへと変わった。
2016年5月22日発行『瑠璃想月』の【九郎×望美】の一部です。