(途中から)
気怠げな中にも醸し出される色気。まだ今ほど彼のことを意識していなかったあの頃だから、きっとあんな軽口を叩けたのだろう。
今同じ事をされたら、羞恥以外も感じそうで、葵の頬は熱を帯び始めた。
昔の記憶に惚けているうちに、葵は剣助の側へたどり着いた。思わず緩んでしまった頬に手を当て、なんとか平静さを取り戻し、彼の様子を窺うためにしゃがみ込んだ。
◇ ◆ ◇
「……っ、ユ……、──……が!」
──ザァァ……
キカク、何を言っているんだ? もっと大きな声で言ってくれ。雨の音が大きすぎて全然聞こえないよ。
それにどうしたんだ、その形相。初めて会ったときと、同じ様な酷い顔をしてるぜ。
なあ、結?
……おい、なんでお前はそんなところで寝転んでるんだ。艶やかで綺麗な髪が乱れちまっているじゃ……
──まさか──!
「結っ!!」
「わっ!」
──しゃらん。
握っていた簪が、音を立てて畳に落ちる。その音と同時に剣助は顔をあげると、思わず目を見開いた。
目の前には、葵が驚きに満ちた顔で目を瞬かせながら、こちらを見やっていたのだ。
ここは、葵座の楽屋。そして今は──明治か。
「アオイ」
「うわっ?」
剣助は小さく名前を呟くと、葵の驚きの声も聞かず、彼女の腕を掴んで引き寄せた。下ろしたままの葵の髪はふわりとなびき、頭はあっさり剣助の胸元に収まった。葵の頬の柔らかさが、しなやかな髪の毛が、はだけた浴衣の間から直接己の肌に触れて、そのくすぐったさが心地よい。
剣助はそのままぎゅうっと、彼女の身体ごと抱き締めた。まるで胸の奥に残る痛みが溶けることを望むかように。
「ス、スケさん?」
突然の抱擁は、剣助の今までの戯れの中で、無いものではなかった。しかし、剣助の様子が普段と違うことが彼女にも判るのだろう。胸元から聞こえるくぐもった声は、いつもの羞恥の声音ではなく、明らかに怪訝さが含まれていた。
(──それもそうか。あんな夢を見た後だ。顔はきっと、酷い形相だったに違いない)
そんな顔を葵に見られたくない。そう考えるより先に剣助の身体は動いていたわけだが、さすがに全く気づかれないで済まなかったようだ。
「どうか、した?」
葵の声は怪訝から気遣うものへと変わっていた。
「お前は本当に温かくて、柔らかくって……気持ちいいな」
剣助はいつもの戯れのように、そう答えるのが精一杯だった。
「もうっ! スケさんってば、いっつもそうなんだから……」
今度は不満の声。葵のこの声で、剣助は大抵一旦、彼女を介抱するのだが、今はそうできなかった。彼の顔は、胸の痛みは、まだ完全にいつも通りとはいかなかったからだ。
「…………いいよ。スケさんが落ち着くまで」
ぽつりと呟かれた葵の言葉。
この温もりに少しでも長く縋りたかった剣助は、その言葉に甘え貪るように、彼女の肩に、髪に顔を埋めて、彼女の身体を抱き締め続けた。
どのくらい時が経っただろうか。気づけば胸の痛みは幾分か和らぎ、剣助は落ち着きを取り戻していた。
「アオイ。お前、みよしのに戻ったんじゃなかったのか?」
剣助は葵を己の身から放すと、彼女がここにいた意味を問う。
「ふぅ──。ああ、私は忘れ物を取りにきたんだ。髪留めを鏡台に置いたままにしちゃってたから」
やっと剣助の束縛から自由の身となった葵は、あからさまに息を吐く。そして、近くの鏡台に顔を向けようとしてから、ふと畳に落ちたままの簪に気づいた。
「あれ、これってもしかしてリンの?」
「ああ。あいつもよっぽど慌ててたんだろうな。それを忘れていくなんて」
「そうだね。いつも肌身離さずって感じだもんね」
特段気にした様子も無く、簪を拾い上げる葵。そのまま立ち上がると、鏡台の上にある自分の髪留めを取る。
「これ、スケさんからリンに返す?」
「? どういうことだ。お前は帰らないのか?」
「私、これからお使いに行くところだったんだ。キノヒメを迎えにみよしのには寄るんだけど、だったらスケさんから直接リンに渡して貰った方が、早いし良いよね」
言いながら葵は鞄から櫛を取り出し、髪の毛を梳きはじめた。
後頭部の上の方に一纏めに結う馴染みの髪型は、快活な彼女によく似合い、剣助自身も可愛らしいと思っている。だが彼はそれだけでなく、少し垂れる後れ毛とうなじ、そこから背に続く艶っぽい線がよく見える部分も、好ましい部分の一つであった。
普段の剣助なら、自分の目の前で無防備に髪を結う葵に、触れたりちょっかいを出したりしただろう。だが、今はそういう気分にはなれなかった。
この雨の中、外へ買い物に出るという葵の事が、やけに気に掛かっていたからだ。
無論原因は、先ほど見た夢──結の最後。
このところ全く見ていなかったというのに、何故今日に限って見たのだろうか。そこに暗示めいたものがあるような予感がして、剣助の心は再び揺らぎ出す。
「オレもついて行こうかな」
「え? 急にどうしたの、スケさん」
葵は剣助の急な申し出を、不可解そうに返事する。
剣助がそう言った原因は、実は結の夢のこと以外にもあった。
今日の興行が終わった後のことだ。贔屓にしてくれている客の一人が剣助に話してくれたことなのだが、ここ二、三日の間に、若い娘が立て続けに行方知れずになっているという。葵座の看板女優に、用心するよう伝えてくれと言われていたのだった。
「今日、芝居を観に来てくれた客から聞いた話なんだが、最近、町の娘が何人か行方知れずになってるらしい」
「ええっ!? そんなことが起きてるの? 私、全然知らなかった……」
髪を梳き途中の葵が、剣助にびっくりした顔を向ける。
「オレも今日初めて聞いた話なんだがね」
「行方知れずってことは、まだその女の子達は見つかってないってことなんだよね?」
「ああ、そうらしい。神隠しなのか家出なのか、それとも……。まあ、用心に越したことは無いと思ってさ」
「そっか。でも、大丈夫だよ。キノヒメが一緒なんだから。それにスケさん、……ま、まだそんな格好だし」
葵は剣助を横目でちらりと一瞥した後、慌てて鏡に顔を戻して再び髪の毛を梳きはじめた。髪の毛の間から覗く耳が、ほんのり赤みを差しているのは気のせいだろうか。
2013年2月11日発行『幕間の夢』の【剣助×葵】の一部抜粋です。