【10月 日光】
盆を持ったままの彼女は七巳に向き直り、まっすぐ目を見つめてくる。曇り無き黒い瞳に見つめられ続け、七巳は次第に居心地が悪くなった。流石にこのままでは耐えかねず目線を逸らそうとする。
「……うん。そうだね……」
だが、先に目を伏せたのは葵だった。普段ならとらない彼女の態度は、嫌でも気に掛かる。
「でも、眠れなかったら、どうすればいい?」
続けるその言葉と共に葵は眉根を顰め、懇願するように見上げてきた。予想し得なかった彼女の問いに、思わず顔を凝視する。
「……それは」
どういう意味かと問い返そうとして、七巳は言葉を止めた。
それより葵の顔色が優れないことを、今更気付いて不安になる。
酒はいつも密が用意してくれ、彼自身が七巳の部屋まで運んでくれる。事情を知る彼なら、葵に運ばせることはしないはずだ。
そもそも、葵が七巳の元に酒を運んでくること自体がおかしいのだ。……すると、この酒は誰のために用意されたものか。
そこまで考え、七巳は嘆息した。
──猿飛が彼女のために用意したものなら、もしかして……。
「葵。折角だから、持ってきてくれた酒を貰おうか」
「え?」
答えではないこと急に言われて戸惑う葵に構わず、七巳は盆の上に載っている徳利を掴むと、そのまま口を付ける。
「ちょっとナナミ! そのままなんて、行儀がわる──っ」
七巳は葵に最後まで言わせず腕を掴んで引き寄せる。彼女が手にしていた盆と載っていた猪口がそれぞれ音を立てて床に転がるが、構うことなく彼女に口づけをした。
「っ……」
そして、軽く開いた彼女の唇を舌で更に開かせると、自身が口に含んでいたものを彼女へ移す。
「んんっ……」
──こくん。
少し抵抗していた葵ののどから、小さな音が聞こえた。それを確認してから、七巳は彼女を解放した。
「────っ」
声にならない息を吐く葵。何が起こったか状況を把握し切れていないらしく、目を見開いたまま身動きしない。
「葵?」
少し強引過ぎたかと不安になった七巳は、彼女の名を呼んだ。
2012年5月4日発行『縁』の【七巳×葵】の一部です。
このような小噺を、剣助×葵、鬼格×葵、淋×葵、陽太×葵、誠司×葵の計6本収録しています。