【10月 日光 門前町宿】
「はい?」
「虫の声。部屋にいるときにほんの少し聞こえてたんだけど、やっぱりここの方がはっきり聞こえるね」
葵の声は意外に明るく、鬼格の杞憂で終わりそうで静かに胸をなで下ろす。
「もう秋も終わりだね」
「姫?」
鬼格が目を瞬かせながら葵を見やると、彼女は少し躊躇うように俯いた。
「私の家でも虫の声がよく聞こえてきたんだ。だからこの声を聞くと秋だなぁって実感してたんだけど、こっちに来てからはそんな余裕がなかったから……」
「そうでしたか……」
葵の言外の思いを感じた鬼格は、自身が答えた声が思うより沈んだ事に驚いた。
しかし、葵は気付いていないようだ。
「だから、ちょっと時期は遅いけど、やっとこの声が聞けて少し落ち着けた気がする」
葵は俯いたまま呟くと、そのまま目を閉じ耳を澄ました。
「……そう、ですね……」
鬼格も真似て目を閉じ耳を傾ける。
──リーンリーン……。
葵から聞くまで意識せず聞いていたこの音色が、今は不思議と安らぎをもたらすものと感じられた。
「綺麗な音色だよね。やっぱり落ち着くなぁ……」
ぽそりと呟く葵の声に、鬼格は閉じていた目を開き彼女を見やる。
葵の瞳はまだ閉じられたままだ。差し込む月明かりに照らされ艶めく黒髪がその横顔を隠しているため、表情はよく見えなかった。
──もう少し傍で見られたなら……。
鬼格のそう思う気持ちは、自然と自身の顔を葵に近づけていて、彼女の頬に掛かる髪に手を伸ばした──。
「本当に、綺麗……ですね」
「わっ」
──パチッ。
吐息にも似た鬼格の囁きに、閉じていた葵の目が開く。彼女はすぐさま仰け反り、鬼格の顔から少し距離を取った。
「か、カクさんっ!? どこ見て言って──」
鬼格は葵に構わず彼女を追うように接近する。月明かりの届かない奥へ行ってもなお、輝いて見えるのは気のせいだろうか。
「姫は本当に、人なのですね。言葉を話し、思いがあり考え自分の意思で行動し、そして俺の言葉に返してくれる……」
2012年5月4日発行『縁』の【鬼格×葵】の一部です。
このような小噺を、剣助×葵、淋×葵、陽太×葵、七巳×葵、誠司×葵の計6本収録しています。