『夢・華・喜』サンプル【剣助×葵】

 ── 明治七年 一月  上野 ──



   第一幕


「スケさんなんて、もう知らないっ!」
 葵座の芝居小屋、舞台が跳ねた後の楽屋にて、葵座の紅一点の女優、水戸葵の声が響き渡った。


 本日で千秋楽を迎えた葵座の正月恒例の興行は、連日満員御礼で幕を閉じた。座員たちは楽屋に戻りそれぞれ着替えを済ませると、みよしので開かれる宴会へと向かった。
 着替えに少し手間取った葵は、楽屋に一人で残って身支度を整えていた。
「さてと。これで全部かな?」
 みよしのは葵がこの時代に来てからお世話になっている食事処兼、宿だ。葵座の芝居小屋の隣にあるので、忘れ物をしていてもすぐに戻って来られる距離ではあるが、葵は念のため、部屋を出る前に楽屋内を見回した。
「あら、あなた一人?」
「はい?」
 聞き慣れない女性の声が葵に掛かる。楽屋内から顔を外に向けると、そこには洋装姿の美しい女性が立っていた。
 ──うわぁ、キレイな人だなぁ。
「えっと……どちら様ですか?」
 葵が少し気後れしながら、問いかける。
 顔の造作は勿論のこと、その女性が身に纏っている服はこの時代の西洋人が着ているドレスそのものだ。日本人女性でありながらそれを着こなしている容姿に葵は内心羨んだ。
「こちらの座長さんに用があるのだけど」
 その女性は葵の問いには答えず、少し見下すような視線を葵に向けてくる。
 まるで、あなたでは相手にならないというような物言いに、葵は羨んでいた気持ちから一転、少しむっとなった。
「座長は今、不在です。ご用でしたら私が伺っておきますが」
 隣で宴会に出ているとは伝えられないし、感じが悪いからといって放っておく訳にもいかないだろう。
 ひとまず自分が用件を聞いておこうと、葵は客かもしれない洋装の女性に対して笑顔で対応する。
「なんだ、いないの」
 女性はつまらないとでも言いたげな顔で葵を一瞥した後、帰ろうとする。
「えっ? ……と、あの、お名前伺っても良いですか? 座長に伝えておきますので」
「……そうね……でもいいわ。また来るから。じゃあ、ごきげんよう、葵座の女優さん」
 女性がその場から去ろうと身を翻すと、微かに薔薇のような香りが葵の鼻孔をくすぐった。その矢先、
「アオイ! まだこんなところにいたのか。お前を待ちきれなくて、ハチなんかもう食い始め──」
「剣助! 会えて良かった!」
 葵を迎えに来たと思われる剣助が、洋装の女性の姿を目にした途端、言葉を失った。
 女性はつかつかと剣助に近づくと、彼の頬を撫でながら自身の顔を寄せる。
「相変わらず綺麗な瞳の色。本当に吸い込まれそう……」
「なっ!」
 葵は思わず声を発したが、剣助は全く動じずに彼女の視線を受け止めてから、少し身を引いて顔を離すと涼しげな笑みで問いかける。
「貴女は、どうしてこちらに?」
「こちらに来る用事が出来たので、寄らせて貰ったの。父も私も良い返事を貰えると期待しているわ」
「ああ……そいつはどうも。近々、正式に伺うとお伝えしています。貴女からもどうぞよろしく」
「わかったわ……。それじゃあ、剣助。またね」
 妙に含みのある言い方で剣助に目配せをして、女性は颯爽と立ち去っていった。
「……はぁ」
 女性の姿が完全に見えなくなったのを確認してから、剣助はあからさまに溜め息を吐く。
「……スケさん、今の人、誰?」
 去っていった女性の剣助に対するただならぬ雰囲気が気になって、葵はたまらず彼に聞いた。
「ん? ああ、彼女は、今度……いや、お前は気にしなくていいよ」
 剣助は説明しかけたが、すぐに口を噤む。
 言い掛けたのに教えてくれない剣助の態度に、葵の胸中には先程からくすぶっている面白くない気持ちに、不信感が加わった。
「でも、あの人は何だかとっても親しげだったね。スケさんも満更でもない感じだったし?」
「おい、俺がいつそんな態度をとった?」
 葵の言い方が気に障ったか、心外だと言わんばかりに剣助の声が少し荒らげた。
「気安く頬を触らせて、にこやかに笑顔で答えてたじゃない」
「……大事な客相手なんだから当然だろ」
 自身の思考から平静さが失われていくのを自覚しながら、葵の口は言葉を続けていた。
「ふーん。それなら最初からそう言ってくれればいいのに。すっごくキレイな人だったよね。お客さんにしておくには勿体無いくらい」
「……アオイ、お前、何かあったのか」
 いくら何でもおかしい葵の態度を、剣助は不審に思って気遣った。だが葵自身は自分の気持ちがうまくコントロール出来ず、
「スケさんなんて、もう知らないっ!」
 捨て台詞のように叫んで、その場から逃げ出してしまった。




   第二幕


「ここにも無かった……」
 小間物屋から出てきた葵は大きなため息と共に呟くと、胸の前でマントをぎゅっとかき合わせ、身を縮めながら歩き出す。
 昨年の暮れから降り出した雪のせいで辺りの景色は白く染まっており、葵が慣れ始めた上野とまた違った装いを見せている。
 それでも、初めてこの時代に来た時に比べれば戸惑うことも少なくなり、こうして街の中を一人で散歩することくらい訳も無くなっていた。

「それにしても、どの時代でも、寒いものは寒いよね……」
 葵は身にしみる寒さに、探し求めているものが見つからない不満も込めて、ブツブツ文句を言いながら足を速めた。
「まさかこんなに見つからないものだなんて、思ってなかったよ……」
 ため息と共に再び呟くと、葵は歩みを止めて空を見上げた。灰色の厚い雲が日を遮っており、その隔たりをまるで今の剣助と自分に重ねてしまい、気分は更に沈む。
 ──神鳴剣助。
 葵座の座長であり、今は葵の恋人でもある。葵が元の時代に帰らずこの明治の世に残ると決意をしたのは、偏に彼がいたからに他ならない。
 剣助と共にこの時代を生きていくと決めた葵は、自分の決断に後悔はなかった。
 その気持ちが揺らぐことのない日々を過ごしていたのだが、正月の興行が終わった昨日。剣助を訪ねてきたある女性のことで、彼との仲が気まずくなってしまった。
 ──お客さんなら最初からそう言ってくれれば良かったのに。
 何故かきちんと教えてくれなかった剣助。
 以前、裏紋の事件の最中も、話して貰えないことがあり、自分は信頼されていないのだと不安に思っていた時があった。
 葵はあの時のように剣助に対して再び不安を抱いていた。だがそれにもましてもう一つの別の感情──嫉妬心に支配されていたのだった。
 それに、あんな風に言われたら、本当に客なのかどうかも疑わしく思ってしまう。そうでなくても、彼には過去が色々あるだろうから、気にならないはずがない。
 あの女性、葵に対する態度は決して良いとはいえなかったが(剣助に対する態度もだが)、美人でスタイルが良く……剣助と並んで釣り合いのとれる大人の女性だった。
 葵は自分の幼さを痛感して、何故だが恥ずかしくもあり悔しくもあった。昨日はその気持ちとうまく向き合えず、結果、剣助には八つ当たりまでしてしまい、未だ素直になれずに気まずいままであった。
「……スケさん、私のこと、どう思ってるかな……」
「こんにちは。葵座のお姫様」

2011年12月29日発行『夢・華・喜』の【剣助×葵】の一部です。

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